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潮汐 の間 目次

   
    序章                

5
    第一部               

13
    第二部               

177
    第三部               

231
    終章                

331
    あとがき              

345

1
潮汐 の間 目次
   
    序章                

5
    第一部               

13
    第二部               

177
    第三部               

231
    終章                

331
    あとがき              

345

1
潮汐の間  
    
       フィスク・ブレット
北京

大連
京城

青島

八丈島

南京

上海

南西

奄美大島

徳之島 小笠原諸島
沖縄島 南大東島
台湾

宮古島 沖大東島 硫黄列島


石垣島
澎湖諸島

香港 バタン諸島

マリ
フィリピン

バブヤン諸島
マリアナ海 パガン

アナ諸
アパリ

リンガエン

ルソン島 サイパン


マニラ テニアン
ロタ
ミンドロ島 グアム

サマール島
レイテ島
ヤップ
パラワン島 ミンダナオ島
ダバオ パラオ諸島

ホロ島
ブルネイ

ボルネオ
序章
   
6

ラミールが最も気に入っている雄鶏は、﹁スウェルテ﹂と呼んでいた一羽だった。タガログ語の名
前の由来どおり、﹁運の良い﹂鳥で、二週間前の試合では大 けができた。あの日から一層可愛がり、
丁寧に世話をしてきたので、スウェルテの怪我も良い具合に治っていた。この調子だと、闘鶏では珍
しい二回目の試合に挑むことだって考えられる。
だから、今すぐに逃げなくてはならないラミールにとって、スウェルテは家の中のどんな物よりも
大切だった。余計な荷物を一切持たず、ラミールは庭に出て籠の中のスウェルテを片手で掬 い上げ、
抱えながら出て行った。
すでに夕方になっていたが、 によると、何十人もの日本兵がラミールたちの村に向かっていた。
村人はゲリラがこの辺で活動していることなど思ったこともなかったが、今回の日本軍はこの村にゲ
リラ狩りに来るという具体的な話だった。しかも、そのゲリラは武器を持っているというので、村人
の不安は一層高まった。
日本軍でさえ、状況を正しく把握しているとは思えず、村人もまたゲリラが誰なのか、どこにいる
のかまったく見当が付かなかった。憎い占領日本軍の情報が正確であるよう祈るしかなかった。自分
たちが疑われないためである。
︵ゲリラの連中は俺たちのことなんか考えてない。一般人の立場はどうなってもいいんだ︶
ラミールは歩きながらそう思ったが、これが正しい判断ではないことは分かっていた。ほとんどの
反日ゲリラ組織は自分たちの行動によって何の罪もないフィリピン人が責任を問われ、罰せられる可
能性を意識していた。したがって、これまでは日本軍陣地の所在地や部隊の移動についての情報をア
メリカ側に通報するなど、目立たない行為を主にしてきたが、近頃のゲリラは以前より大胆な事件を
引き起こすようになってきたことも否定できなかった。
戦闘の激化を好まないラミールでも、ゲリラの熱意は認めた。日本の侵略に対する当然な怒りを敵
にぶつけているだけだ。ゲリラの中には立派な愛国者が多かった。
︵ベニトみたいに。でも、あいつも気を付けないと、いつか殺されるし、俺の場合はとにかく皆よ
り複雑だ。ここまで何とか無事にやってきたのだから、今さら関係ないことで疑われたくない︶
戸別に村を調べるようなことがあれば欲しい物を奪い取る兵隊もいるだろう。他の物は無くなって
も大した損はないが、やはりあの雄鶏だけは持って逃げなければならなかった。
スウェルテは実に見事な鶏だった。怒っている時は特に綺麗で、勝負の相手に飛びかかると、前方
に伸ばす爪と後ろに突っ張らせる翼の線は美しく、たてがみのような黒と茶色の長い羽はそれをより

序章
強調した。
ラミールはどう歩いて行けば日本兵を避けられるかを考えながら、スウェルテを右腕で優しく抱
え、左手で羽を撫でていた。ラミールが道を離れて生い茂る木々の中に入って行くと、雄鶏は静かに

7
クゥークゥーと声を上げた。

8

二等兵の森武義は、嬉しさの余り頰が緩むのを抑えきれなかった。自分は帝国陸軍の最下階級であ
り、普通よりずっと短い訓練しか受けてこなかった。その上、フィリピンまでの旅は恐ろしい経験で、
今生きていることは正に奇跡だった。しかし、こうした現実を目の当たりにしても、森はすべてを忘
れ去ってしまうほどの達成感を味わっていた。
やっと兵士になれたからだ。
︵しかも、歩兵に!︶
三八式歩兵銃を手にしてなおさらそう感じた。口径六・五ミリのこの小銃はおよそ四〇年間にわた
り陸軍歩兵の必携の装備品だった。森も、数分前に、初めての戦闘に備え、自分の小銃に銃剣を取り
付けた。
森たちは近くの集落の外れに五、六人のゲリラがこもっていると知らされていた。そのため中隊か
ら五十人弱の小隊が編成され、集落に向かっていた。ゲリラの武装が予想されていた。小隊は捕虜の
必要はないと、はっきりした命令を受けていた。
︵人数の差を考えただけでも圧勝になりそうだ︶
二列縦隊で歩く小隊は徐々に三つの分隊に分かれる。第一分隊は迫っている暗闇の中を進んで、家
の前まで回って行く。主たる攻撃はこの第一分隊の任務である。第二の分隊は周りの道から一般人の
侵入を見張る。最後に、森がいる第三分隊は家の後ろで脱走を試みるゲリラを警戒し、補助攻撃の合
図を待つことになっていた。
︵やっぱりいい気分だ。行軍なんかよりずっといい︶
森は心拍が速くなっていることに気づいた。
︵父さんの言ってたとおりだ。父さんには何でも分かっているんだ︶
森の父は日露戦争の歩兵としての経験があった。秋田の家を出る直前に交わした会話を思い出しな
がら、父の表現力や知識に改めて感心した。
気づかれないように、小隊はゲリラの家の遥か後方から近づき、森は他の分隊が列を離れて、木々
や草むらの間に消えて行くのを見た。そして、最終的な位置まで遠回りして行くために出発した。
もう完全に夜になっていたが、月の光で辺りはよく見えた。森の分隊は地を うように最後の数
メートルを静かに進み、家が見えた時、森はその小ささにびっくりした。
︵こんな狭いところか?︶
家は時々見かけるヨーロッパ風の建物で、白い壁が月の光に照らされて光っていた。
︵出てくる奴がいたら分かりやすい︶
森たちと家の間は五十メートルしかない。雑草が生い茂っている、かつての庭の縁に分隊が広がっ

序章
た。伏せの姿勢で小銃を家に向ける兵士もいれば、椰子の木の後ろに隠れる兵士もいた。
森も列の真ん中辺りで小銃を家に向け、狙いを定めた。

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ラミールが向かった場所はかなりの距離があったが、途中には一軒の家しかなかった。住民に見ら
れないように、ラミールは遠回りをすることにした。裏にある小道をしばらく歩けば川原に出て、そ
の辺で過ごせば少なくとも飲料水は確保できる。明日もまた今日みたいに暑くなるはずだ。
あれこれ考えながら歩いていたラミールは突然の爆発音で我に返った。
︵この辺で攻撃か? 嫌だな⋮⋮︶
爆発は近いが、どの方向か分からなくてラミールは焦った。すぐに二発目も聞こえ、ラミールの腕
の中のスウェルテが怖がり、翼をバタつかせた。スウェルテを抑えながら、ラミールはすでに通り過
ぎたあの家へ引き返そうと走り出した。今となっては、そうした方が暗闇の中を進むより安全な気が
した。
︵あそこに避難していればいい⋮⋮︶
その瞬間、ラミールは立ち上がる男の影を見たが、反応が遅すぎて、突然の衝撃と激しい痛みが胸
部を襲った。一瞬のうちに自分が仰向けに突き倒されていることが分かった。
喘ぐことさえできないまま、ラミールは自分の上に聳え立つ日本兵のシルエットに気づき、喉首に
銃剣が当てられていることを感じた。
﹁動くな! 動けば撃つぞ!﹂
日本語で叫ぶ声が聞こえ、ラミールはじっと動かず、小銃や手榴弾の音を聞きながら上を眺めた。
燃え始めたあの家から炎が上がり、その明るさで少しずつ相手の顔が見えてきた。
かなり若い兵士のようだった。

手榴弾が二発破裂して間もなく、後方に足音が聞こえた。森は振り向くと、突進してくる男の姿
が見えた。小銃で狙う余裕はなく、森は肩に当てていた小銃の台じりで男の胸に突きを入れ、その後、
倒れたフィリピン人の喉に銃剣を素早く当てた。
森の分隊が家に向けて小銃を撃っていた。日本語で命じても充分効くようで、男は動こうとしな
かった。
そのうち攻撃中止命令があり、急に静まった周りから何人かの仲間が駆けて来た。分隊の一人が
フィリピン人の手を押さえ、もう一人が足を地面にしっかりと押さえつけた。
すると、フィリピン人がいきなり日本語で叫んだ。
﹁殺さないでけろ!﹂
取り囲んだ日本兵は言葉を失った。
沈黙が続く中、フィリピン人がもう一度叫んだ。

序章
﹁殺さないでけろ!﹂
二回もその言葉を聞くと、森のそばに立っていた城川上等兵が思わず声を上げた。

11
﹁何じゃこいつ。俺んちの さんとそっくりな喋り方じゃねえか!﹂
緊張していた周りの兵隊は笑い出した。

12
その時、森はまだ銃剣を当てていたが、何が何だか分からなくなっていた。そして、自分の下に横
たわる男の姿をじっと見ながら静かに呟いた。
﹁何だ、この羽は﹂
第一部
   
14

小学校の門をくぐるのは何年ぶりのことだろう。桜が咲きそうなこの時期はまるで新学期の始まり
のような気がした。校庭を渡り、玄関に入ると、森は小学生の頃の校長先生に声をかけられた。
﹁お早う、森君﹂
﹁お早うございます﹂
森はお辞儀をして周りにある靴箱を見回した。多くの靴がすでに入っていたので、同級生がたくさ
ん集まっているようだった。自分の靴を脱いで森は校長先生が指差す方向に歩き出した。廊下の先か
ら聞こえてくる微かな声を聞きながら、森は周りを見た。大人になったせいか、教室の机や椅子はみ
んな小さく感じた。
廊下の突き当たりまで来ると出口があり、森は一旦外に出て、すのこ板の上を歩き、体育館へ渡っ
た。体育館に入ると軍服を着た中年の男に名前を聞かれた。
﹁森武義です﹂と名乗ると、男は手にしていた紙に印鑑を押し、体育館の奥で褌一丁になっている
青年の一群を指差した。
﹁あそこで服を脱いで、一番のテーブルの前に並びなさい﹂
体育館の正面の壁沿いにいくつものテーブルが並べてあり、その後ろに白衣を着た見知らぬ男性た
ちが座って待っていた。
森が脱ぐ場所に着く頃には、ほとんどの青年は脱ぎ終わりテーブルの方に行こうとしていた。みん
な知り合いなのに言葉を交わす者はなく、沈黙が保たれていた。森も服を脱ぎ一番のテーブルの列に
入るまでに、最後の者も ったらしく、名前を記録していた男が画板を持ったまま二人の軍人仲間の
ところへ行き、その報告をした。
徴兵検査は青年たちの人生を決める大きな出来事だった。明治六年からすべての日本人男性が二十
歳になる年に受けることになっていた。今年からは、戦況に応じて二十歳ではなく十九歳の男子も皆
対象となった。昭和十九年、森は数週間前に誕生日を迎えた。周囲に立っている同級生もみんな今年
十九歳になるはずだった。
検査の目的は、徴兵可能な若者の情報を各地より集めることだ。役所の兵事係が何週間前から自
分について調査を行っていたことを森は知っていた。直接家を訪れ、父に会い、森家の健康歴や宗教、
森自身の学歴や特技についても調べた。父の所得や財産まで問われると、森は調査の細かさに驚いた。
だが父の話によると、森の兄が二十歳になった時も同じだった。何十年も前、森の父も似たような
調査を受けたそうだ。日本の男子はすべて兵士として考えられ、徴兵制を効率よく運営するためには

第一部
莫大な情報が必要であった。
森は三年前に兄の光弘が徴兵検査から帰ってきた時のことを思い出した。森と父は兄の笑顔で甲種

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合格を確信した。体格の良い兄だったので、当然のこととはいえ大変誇らしかった。犯罪歴がある場
合や本人及び家族の評判によって、兵役失格となることもある。甲種合格は、森の兄が身体的にも精

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神的にも健全であることの証しであった。その夕方、多くの隣人や親戚が兄に会いに来て、二年の徴
兵の始まりを祝福してくれた。甲種合格なので、任期が終わってからも就職などで有利なはずだ。
﹁最初の訓練が終わったら、きっと上等兵修業に選ばれるよ﹂と、にこやかに誉める人もいた。
そして、今度は自分の番だ。
﹁これより、徴兵検査を行う。質問に答える以外は話をするな。検査が終わり次第、服を着て、体
育館の後ろで正座して次の指示を待て﹂
こうして始まった検査は、意外と早く進んだ。先ず体重と身長が測られ、森は一七〇センチだった。
甲種合格に最低必要なのは一五二センチで、身長より体重の方が心配だった。自分は兄よりも細い体
格だった。体重を少しでも上げようと、森は水をいっぱい飲んできたのだった。
︵六二キロ。悪くないか︶と自分の番になり、森が体重計の数字を見下ろしながら安心した。これ
も甲種合格のはずだった。
次の長机では、三人同時に目の検査を受けていたにもかかわらず、列が詰まっていた。毎回取り替
え ら れ る 張 り 紙 の 文 字 を 森 の 同 級 生 た ち は 読 も う と し て い た が、 そ の 一 人 が 眼 鏡 を 外 し て 肉 眼 で や
るように言われたらしく、下半分の細かい字を読むのに苦労していた。左右にいた二人が検査を終え、
両端の人が入れ替わっても、その青年だけは残って顔を赤くして頑張っていた。
︵長谷川君じゃないか。ちっとも変わらないな︶と森は自分の番を待ちながら思った。
森は目の検査も聴力検査も引っかからなかった。引き続き腹の触診や胸に聴診器を当てられたりし
て、普通の健康診断だった。森は、今までに喘息や結核で悩んだこともなく、喉を調べられても健康
そのものだった。シラミ検査も受けたが、頭を刈り上げていたのでそれも問題なかった。
ところが、兄の光弘から徴兵検査の話を聞いてからずっと、森が恐れていたことがある。その検査
が最後に行われた。
白衣を着た男性二人の指示に従い、褌まで脱がされた森は四つん いになった。すると軍医の一人
が長いガラス棒を森の肛門に突っ込んだ。その手荒い扱いに悲鳴を上げそうになったが、周りの目を
意識して我慢した。
やっと立ち上がると、もう一人の男がいきなり森の前の方を摑んで引っ張った。予想していたもの
の、実際にやられると森は恥ずかしさと痛みで耐えられない思いだった。
だが辱めの気持ちが一時高揚しても、これも兵隊になるために避けられないものだと、体育館の後
ろの方で服を着始めた森は納得した。そして徐々に気を取り戻し、体育館を見回して残りの受検者を
数える余裕まで出た。
︵あと六人だ⋮⋮︶
この最後の受検者たちがやっと着替えの場所へ向かった頃、責任者の男がまた出て来て、若者たち
に言った。

第一部
﹁では、書類を用意するので、しばらく待ちなさい。十一時三十分に結果発表をする。二十分後に
は必ず戻れ﹂

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そう言って、男が青年たちに背を向け長机に戻り、仲間と一緒に紙を並べたり、記入したり、折っ
たりする作業を始めた。何人かの青年は体育館に残って静かにこの作業を見ていたが、森は昔の教室

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を覗いてみようと思い、学校の本館に戻った。
今度は来た時とは反対方向にすのこ板を渡り、本館の廊下に着くと、角の教室に長谷川がいた。
﹁入っていいか﹂
﹁うん﹂
二人は久しぶりに話し合った。この辺の多くの若者と同じように、長谷川も卒業してからは農家で
ある親の手伝いをしながら誕生日と徴兵検査を待っていたそうだ。
長谷川は森の顔を見て言った。
﹁俺、駄目な気がする。一四九センチしかないし、こんな目だからさ。乙種の補充兵かな﹂
森は思わず正直に答えてしまった。
﹁まあ、その最後の一センチをどう見てもらえるかによるな。でも、心配したって仕方ないだろ
う﹂
﹁まあね⋮⋮﹂長谷川が俯いた。
十一時三十分になる前に森と長谷川は戻り、体育館の同級生と一緒に正座した。軍服姿の責任者が
ぴったりの時間に立ち上がり、青年たちに﹁起立!﹂と命令した。
﹁では、結果発表をする。言われたとおりに復唱しろ!﹂
そして、五十音順に名前が呼ばれ、若者たちは声を張り上げて元気良く自分の検査結果を復唱した。
十人ほどこうして甲種合格を発表されている間に、森は少しずつ嬉しさがこみ上げてきた。
︵やっぱり、俺たちは優秀だ︶
しかし、長谷川の名前が呼ばれた瞬間、森は緊張した。長谷川が初めての甲種不合格になりそう
だったので可哀想に思った。
ところが、驚いたことに、
﹁長谷川利一!﹂の後に続いた言葉は﹁甲種合格﹂であった。森は長谷
川の返事する声が聞こえない程驚いてしまった。
自分の名前が呼ばれた時、﹁森武義! 甲種合格!﹂と声を張り上げながらも長谷川の合格はどう
しても信じられなかった。
︵甲種合格の標準が変わったのか︶
そうだとしたら、自分が合格したこともそれほどめでたいことではなくなる。長谷川の幸運は喜ば
しいが、やっぱり複雑な心境で森は後に続く発表を聞いた。
結局、その日は二人の青年を除いて全員甲種合格だった。不合格の二人も呼吸器官の検査で引っか
かったため、数週間の休養後にまた再検査を受けることになったので、まだ合格する可能性はあった。
名前を読み終えた責任者は名簿を長机の上に置いて言った。
﹁甲種合格兵は全員に召集令状が発令される。出口前の机の上に置いてある。もらって帰ること﹂
︵良かった!︶

第一部
森は長谷川の合格や甲種の標準低下のことを考えないようにした。これでとにかく令状をもらって、
家で待っている父に報告ができる。

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︵父さんが喜んでくれる。それだけでいいや︶
言われたように森たちは出口で召集令状を渡された。名前が書いてある封筒を手にして森は最後に

20
体育館と校舎をつなぐすのこ板をもう一度渡った。
正面玄関まで来ると、森たちはそこにずっと待っていた校長先生に再び会った。ほっとした森は優
しく微笑みながら青年たちを見送る校長先生の顔を、校門を入ってきた時よりもよく見る余裕があっ
た。子供の頃はとても怖かった校長先生に、
﹁おめでとう﹂と優しく誉められるのは嬉しかった。
ただ、森が不思議に思ったのは、別れる時に気づいた老人の目に光る涙であった。

朝食を食べながら、森は昨夜の攻撃について考えた。分隊ごとの行動は機敏で、すべてにおいて成
功したのは確かだった。全部で七人のゲリラはほとんど抵抗できずに殺され、小隊は一人も怪我人が
出なかった。小さいながらも立派な戦果だった。
だが、自分が捕らえたあのフィリピン人のことを思うと、森はどうもすっきりしなかった。もう少
しで殺すところだった初めての戦闘相手がどうやら祖国との繫がりがあることは、森にとって気味の
悪い事実だった。
小隊が兵舎に戻ってから、フィリピン人は中隊長の堀内大尉に渡され、深夜まで尋問されたらしい。
大尉がどのような情報を得たかは森たちに知らされなかったが、他の村人ならば、取り調べ後に処刑
されたであろう。ゲリラの家に向かって走ったことだけで充分に怪しかったし、処刑すれば周囲の村
人に良い見せしめになるからだ。
ところが、今回の男は非常に運が良かった。日本語を喋るからではない。日本語ができるフィリピ
ン人は少ないにしろ、南にあるミンダナオ島では昔から日本人村があり、マニラ周辺にも日本人が占
領前から暮らしていた。それに、日本軍が来てから三年も経っていたので、こんな田舎でも少しは喋
れる人間がいてもさほど不思議ではない。
男を救ったのは、言葉よりもその喋り方だった。森の中隊は、もともと秋田県で編成された部隊で
あった。ぎごちない話し方でも、男の確かな東北弁にはみんな驚いたのである。
そろそろ食べ終わる森に城川上等兵が話しかけてきた。森や他の新兵たちよりも階級が上なのに、
親切にしてくれる城川は珍しい存在だった。今朝も食べながら城川は笑顔を見せた。
﹁いやあ、お前が昨夜捕まえたあのズッチャには驚いたな﹂
ズッチャという東北弁には森も思わず笑った。
﹁フィリピン人のズッチャですか。若すぎますが、確かに⋮⋮﹂
﹁しかも、俺の さんの喋り方に似てるって言っただろう? おふくろの親戚が岩手にいるんだけ

第一部
ど、どうもあのズッチャの親父も岩手から来たらしい。なぜか知らないけど、ずっと昔この辺に住み
着いて、あいつがこっちで生まれたってわけだ﹂

21
﹁なるほど。そういうことですか。他に何か分かりましたか﹂
地面に胡坐をかきながら、城川が事情を説明してくれた。

22
﹁あいつは岩手の親父と二人で闘鶏にはまり込んでいたらしい。親父さんはもう死んでるみたいだ
けど﹂と言ってから城川は笑い出した。
﹁そう言えば、お前のせいで、あいつが大事にしてた雄鶏も
死んじゃったって嘆いていたよ﹂
思い出し笑いがこみ上げてきて、城川は食べようとするのを諦め、 を置いて目に浮かんでくる涙
を拭き始めた。
﹁まあ、可哀想と言えば可哀想だけど、こんなに笑ったのは何年ぶりだろう。だって、あいつの
﹃けろ﹄使いの後に、お前があんなわけ分からない表情で、
﹃何だ、この羽!﹄とか言って⋮⋮﹂
上等兵にからかわれて森は顔が赤くなり、自分の皿を片付けながら話題を変えようとした。
﹁で、この後はどんな予定でありますか﹂
城川は少しずつ笑いを抑え、また食べながら答えた。
﹁ああ。俺たちの小隊は、あのゲリラの家があった村に移る。もうゲリラはいないだろうけど、し
ばらく駐留して、俺たちの存在を知らしめるってところだ。俺の今日の仕事は、あのフィリピン人を
家まで送ることだ。大尉から場所を確認せよという指令があった。そうだな、お前も来い。何しろ、
あの恐ろしい雄鶏は他にもまだいるかもしれないし⋮⋮﹂
城川は昨夜のように体を揺らしながら笑い続けた。

﹁甲種だな! その顔で分かるよ﹂
森の期待どおりに父は喜んだ。
﹁光弘兄さんも喜ぶよ。今夜二人で手紙を書こう﹂
﹁召集令状をもらってきました﹂
居間の敷居に立ったまま、森は から礼状を取り出し、父に手渡した。
こんなに心臓がどきどきしたのは生まれて初めてだった。父が開けようとしている封筒には、これ
からの森の人生そのものが入っているのだ。入営部隊、日時、送られる戦地も、それらがあの封筒の
中に詰め込んであった。
父は目を通しながら、おもむろに読み始めた。
﹁大日本帝国⋮⋮。 よし、陸軍だぞ! それから、五月十五日、朝九時市内の兵舎に来いだって。

第一部
訓練が終わって、出陣するのは八月だろう﹂
﹁それで?﹂

23
父は森が聞きたがっていることは分かっていたが、すぐには言わないで、大きく笑ってからやっと
令状を息子に見せた。

24
﹁歩兵だ! おめでとう﹂

森は、ため息のような、悲鳴のような、自分でもわけの分からない声を出し、ほっとした。
森も兄の光弘も、子供の頃から歩兵に憧れていた。理由の一つは父の昔話だった。二人の兄弟は、
物心が付いてからずっと父の日露戦争の経験を聞かせられながら育った。歩兵は父にとって、最も立
派な戦士だったが、兄の光弘が砲兵連隊に召集された時、父はがっかりした様子などはまったく見せ
ず、どの兵隊でも立派だと言った。
二人は何度も令状を読み返しているうち、森が気づいた。
﹁どこに行くかは書いてないな﹂
﹁それはそうだ。でも、秋田の子はほとんど光弘みたいに満洲のどこかに行くんじゃないかな。運
が良ければ、向こうでお兄ちゃんに会えるかもしれないぞ﹂
﹁それじゃ、後ろを注意しなけりゃ⋮⋮﹂
光弘が砲兵隊に召集されてから出陣するまで、森が﹁兄ちゃんは後ろから撃つんだから、最前線の
者は要注意だ﹂と冗談を言っていた。森の父もその会話を思い出し、笑った。
﹁まあ、お前がいれば、みっちゃんも気を付けてくれるだろうよ﹂

城川上等兵は約束どおり森を連れて、合計四人でフィリピン人を自宅まで送った。日差しは強かっ
たが、昨夜と違ってきちんとした道を歩いていたのでそれほど疲れはしなかった。
一時間ほど歩いたがラミールは一切口を利かないので、この男が何を考えているか、森はずっと想
像していた。ラミールが今も自分の胸をおさえているので、小銃で叩かれたのは相当に痛かったのだ
ろう。森は何となく気になったが、殺すところだったと思えばそれだけで済んで良かったのだ。シャ
ツに付いている血を見た時、森は一瞬驚いたが、それが本人のものではないことにすぐ気づいた。
︵他に雄鶏はいるのかな︶と森は心配したが、男の家に着くと、家の前にある複数の籠と、そこに
入っている数羽の雄鶏が目に入った。空っぽのものもあったが、少なくとも四、五羽は残っていたら
しい。
ラミールの家は昨日のゲリラの古家に似た作りで、道から少し離れて建っていた。かなり古い建物

第一部
で、もともとは白色だったと思われる外壁のペンキはところどころ剝がれていた。
入り口の前に小さなベランダがあり、猪俣二等兵を連れて城川上等兵がその手前まで近づき、耳を

25
ドアに当てた。中の様子を伺ってから、二人は銃剣付きの小銃を用意の姿勢をとりながら中に入って
いった。だが、怪しいものはなく、城川上等兵が先に出てきて、中へ入っても良いとラミールに合図

26
した。
城川は森のところへ来た。
﹁あいつはちっとも怪しくないな。禁制品なんか全然ない﹂
裏庭に回って行くと、大きな鶏小屋を見つけた。
小屋の中に籠があり、その中に卵がいくつか入っていた。その卵を心配していたのか、ラミールが
家から出てきて森たちの後を追ってきた。
﹁心配しないでいいよ、ズッチャ。お前の卵を奪いに来たわけじゃないから﹂と、城川は目を細め
て言った。
﹁今日はね⋮⋮﹂
上等兵のユーモアを理解できなかったフィリピン人は返事に困り、そわそわしていた。城川は〝や
れやれ〟という表情で残った二人の歩兵に声をかけた。
﹁もう少し先まで調べて来い!﹂
﹁はい﹂という返事を聞いてから、城川は笑顔で森に言った。
﹁しばらくここで休憩とするか﹂
座り心地の良さそうな石に腰掛けると城川は続けた。
﹁ズッチャ、お前の親父はこの国でいったい何をしてた?﹂
﹁サボーン﹂
﹁闘鶏? それだけか﹂
﹁卵も売っていました。今、鶏はここにしかいませんけど、昔はもっといっぱいいました﹂
﹁じゃ、お前の親父はわざわざ養鶏場をやるためにフィリピンへやって来たのか﹂
﹁違います。最初は船乗りの仕事でダバオにいました。でも、日本に帰らなかったのはサボーンが
面白かったからです。そして母と結婚すると、ここに移って卵を売りながら雄鶏の飼育に力を入れま
した。評判はなかなか良かったです﹂
今まで暗かったラミールの顔が少し明るくなってきたのを見て、城川は闘鶏のことを聞いてみた。
﹁あれは、どうやって闘わせるんだ﹂
﹁雄鶏はもともと喧嘩好きだから簡単です。戦わせる前に金属製の刃を足に付けますが、それか
らは飼い主らが互いの雄鶏を近づけるだけで充分です。手を離せば、すぐに飛びかかっていきます。
戦っているうちにどちらかが倒れれば、審判はその雄鶏を立たせて、まだ闘えるかどうかを確かめま
す。後はどちらかが死ぬまでその繰り返しです。審判が決めた勝ち負けにあわせてお金が支払われる
と終わりです﹂
﹁じゃ、お前たちも けたのか﹂
﹁もちろん。それがサボーンです﹂

第一部
27
28

森は父に起こされ、二人はちゃぶ台を挟んで朝食を食べていた。
﹁武義、今度の土曜日と日曜日に、東京に出かけないか? 自分もしばらく行ってないし、探した
い本があるんだ。永田のところにも顔を出しに行こうか﹂
森は大きく頷いた。東京へは、子供の時に一度しか行ったことがなく、入営前にもう一度行けると
思うととても嬉しかった。永田家への訪問は特に楽しみだった。
﹁本当、お父さん? 行きたいよ!﹂
﹁では、そうしよう。旅行証明書と手紙を書いておくよ。午前中にそれを役所に届けてくれ。万が
一私が行かなきゃならないなら、学校まで知らせに来い。仕事帰りに寄れるから﹂
朝食を食べ終わってから、父は手紙を書いて森に託した。師範学校で働いている父を見送って、森
は週末の上京について考えながら食事の後片付けに励んだ。
家事以外にもその日の勉強の課題があった。昔からの決まりで、父はしおりを挟んで机の上に本を
置き、息子たちはそのしおりが入っているところを読むことになっていた。そして、夕方帰ってきた
父と夕飯の支度をしながら、その日の読み物について話し合った。﹁読むのは自由だが、話し合うの
は義務だ﹂というのが父の決まり文句だった。
子供の頃は学校の宿題もあり、父の課題を苦痛に思ったこともあったが、近頃は楽しんでいた。経
済や歴史の話が多く、どれもためになるからである。
今日机の上にあったのは京都帝国大学経済学会出版の﹃経済論叢﹄だった。二月刊行の﹁郷土と祖
国﹂という論文にしおりが入っていた。自分の部屋に持ち込んでから、森は畳の上に寝転がり、目を
通した。
いかにも父の好きそうな内容ではあったが、どうしても今目がいってしまうのは、自分の棚にあ
る﹁のらくろ﹂の漫画だった。経済の雑誌は午後に読めばいいと、棚からその漫画の一冊を手に取り、
ほこりを掃ってからしばらく夢中になって読んだ。
何年ぶりかに読んだが、子供の頃の森は、のらくろのとぼけた冒険が大好きだった。ドジを繰り返
しながらも、順調に昇進する主人公の犬。
﹁猛犬連隊﹂の愉快な話は、すぐに入営する森にとって新
たな趣を感じさせた。
役所が開く時間になると、森は父が書いた手紙を持って出かけた。先ず森が目指したのは、数百軒
の家庭を担当する小さな役所だった。担当軒数のほとんどを占めるのは農家だったが秋田市内まで自
転車や歩きで通える距離だったので働きに行っている家長もいた。︵でも、父さんみたいな教授は他

第一部
にいない︶と、子供の頃から森は父の仕事を誇りに思っていた。
役所に入ると、森は入り口の近くにいつも座っているお さんに挨拶された。

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﹁お早うございます。兵事係とお話したいのですが﹂
お さんが兵事係の机まで案内してくれて、森はそこでしばらく待っていた。自分以外に村人は誰

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もいなく、役所の中はとても静かだった。
森や同級生たちを数週間も調査した兵事係は、やっと奥の部屋から出てくると、すぐに森の名前を
呼んでくれた。
﹁ああ、森君。今日はどうしたの?﹂
仕事の責任上、二十歳前後の男子の名前を知っていて当然だったが、それでも、名前を覚えてくれ
ていたので森は誇らしかった。
﹁実は、父と二、三日東京へ行って来ることになりましたので、これを持ってまいりました﹂
森が差し出した手紙に目を通してから、兵事係は答えた。
﹁分かった。特に問題はないでしょう。君が入営するまでまだ一カ月はあるし、何しろ、君のお父
さんのことはよく知っているからな﹂
手紙を机に置いて、兵事係が続けた。
﹁日露戦争の時、わしの従弟がずいぶん君のお父さんにお世話になったんだ。森先生は本当にいい
人だ﹂
﹁ありがとうございます﹂と、森は頭を下げた。
﹁最近そうじゃない人も多いからな⋮⋮﹂
﹁どういうことですか?﹂
﹁いやあ、実はな、今困って奴がいるんだよ。この間のお前たちと徴兵検査を受けるはずだったの
に全然来なくてな。日にちでも勘違いしたのかなって思ったんだけど、家の人も余り協力的じゃない。
やっぱりどっか行っちまったんだとしか思えない﹂
﹁逃げたんですか!﹂と森は驚いた。そんなことがあるとは聞いていたが、自分の同級生に逃げた
奴がいると思うと許せなかった。
﹁恥ずかしくないのかな﹂
﹁それなんだよ。そういう連中は恥なんて知らないんだよ。そのせいで私たちまで恥をかくから、
早く出てきて欲しい﹂
兵事係は明らかにむかむかしていた。
﹁東京にでも行ってしまったんじゃないかな。逃亡者は皆そうだ。大都市をとにかく目指して、適
当な仕事を探し、戦争の終わるのを待つんだ。卑怯なことをして、どの面さげて帰ってくるつもりな
のか⋮⋮﹂
﹁この辺からは初めてですか﹂
﹁いやあ。去年もあった。三十代の男だ。アカか何かで⋮⋮。もう困った奴だった。あんなの、親
にとってはただの逃亡者よりも酷い恥だよな。結局あいつは大阪で見つかった﹂
﹁今は獄中ですか?﹂
﹁いいや。徴兵されたよ。捕まった瞬間⋮⋮﹂

第一部
兵事係がゆっくり立ち上がった。
﹁では、お父さんによろしく言っておいてください﹂

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﹁ありがとうございました﹂
森は家に向かいながら逃亡者の心境について考えた。これほど恥ずかしい行為をするなんて、よ

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ほどの事情に悩まされているのだろうか、それとも、とんでもない腰抜けだろうか。どっちにしても、
森にはやっぱり理解できなかった。

森と城川上等兵は中隊の第三小隊に所属していた。第二小隊は数キロ東にある別の村で堀内大尉
の指揮の下で駐留していた。階級の低い森には情報がなく、第一小隊の場所はよく分からなかったが、
そんなに遠いはずはないと思った。
第三小隊がゲリラ事件のあった村に移ってから一週間がたったある朝、森は城川と一緒に巡回に出
かける準備をしていた。
小隊は村の中心部にある二つの建物を徴発し、森と城川が所属する第二分隊はそれを兵舎として
使用していた。第一分隊も近くの建物を兵舎として使っていた。この中心部からいつも始まる巡回は、
歩くのが好きな森にとっては決して嫌なものではなかったが、日中が暑いときなど、非常に疲れると
きがあった。
森は要らない荷物は部屋に置いて行けば良いと思い、予備の靴下や裁縫箱、石けん、日本から持っ
てきたわずかな書物と文房具を大きな袋にしまっておいた。それから、巡回に必要な弾薬盒の中に小
銃の弾丸や手榴弾を入れ、飯盒と一緒に背囊の下に縛り付けた。最後に銃剣をベルトに付けると、水
筒を右肩にかけた森は、準備完了のつもりだった。
﹁これも忘れるな﹂
城川は自分が篏めようとしていた防蚊手袋を森に見せた。森は先ほど顔や腕にシトロネラの虫除け
を塗ったが、置いていくつもりの大きい袋から木綿の手袋を取り出した。それはミトンのようにでき
ていたが、小銃を撃つ時には指を出せるよう、手のひらに割れ目があった。
﹁この国じゃ、ゲリラより怖いのは蚊とアメーバだ。熱帯病がなかったのは満洲のいいところだっ
たな﹂
中隊ですでに熱病で苦しんでいる者が数人いて、死者も一人出ていた。下痢で悩んでいない兵はお
そらく一人もいなく、赤痢も少なくなかった。
﹁行くぞ﹂
二人は小銃を背負って出発した。
歩きながら森は考え事をしていた。何を見ても、フィリピンは日本の東北地方とはまるで別の世界
だった。

第一部
︵しかも、日本の田舎に比べてもフィリピン人は貧しいな⋮⋮︶と、森は考えずにいられなかった。
小隊が来てから村の人々との間で大きな問題はなく、日本兵の駐留を本音では嫌がっても、公には

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そんな気持ちを表す村人はいなかった。役所の建物を徴発したことも、誰も不平を言わなかった。
小隊は日本軍の決まりごとを書いた看板を立て、村の中心部など数箇所に掲示した。日本兵とすれ

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違う時はお辞儀をすること、右腕に日の丸の腕章をすること、家の前に日本の国旗を立てること。こ
のような規則の他に、日本兵の質問や要求に答え、反抗したり逃げたりしないこともその重要な一部
だった。いずれの決まりも、守らない場合は敵として扱うと、はっきり記してあった。
最近の巡回の目的は、日本が導入した戸籍制度にまだ登録していない者に書類を書かせることだっ
た。未登録者を見つけ出すために、道で通りかかった村人に登録証明書を提示させたり、戸別に直接
訪ねたりもした。書類はそれほど複雑な内容ではなく、本人や家族の名前と年齢、あるいは宗教につ
いての簡単な質問があるだけだった。ほとんどの住民は読み書きができたし、できなくても、名前だ
けは書けたので森たちはそれほど苦労しなかった。しかも、村人はほぼ全員カトリックだったので、
その辺は簡単に済んだ。
しばらく歩いて、森と城川は、ニッパの葉で屋根を葺いた家﹁ニッパ・ハット﹂がいくつも並んで
いるところへ来た。住民の多くは外に出ていて、一人ひとりがぎごちないお辞儀をした。しかし、一
人の老婆だけは二人の兵隊を睨みつけて、タガログ語で何かを怒鳴り、物凄い勢いで家のドアを閉め
た。
城川は立ち止まり、一瞬考えてから森の方を向いて言った。
﹁何だあの婆さん。見逃してやりたくてもこんなに人が見てるし﹂
珍しく城川上等兵の表情が苛立ってきたが、それも長くは続かなかった。城川は家まで歩き、ドア
を三回叩くと、中から大きな叫び声が聞こえた。二人をけなしているだろう婆さんのタガログ語は余
りにも大げさな様子で、城川は笑い出した。
﹁何だかすげーな、こいつ!﹂と城川は森の方を振り向いた。
﹁危ない!﹂
森は叫んだが遅かった。素早く開けてはまたすぐに閉めるドアから、婆さんは上等兵の背中に靴の
片方を投げつけた。
﹁おい、おい﹂と笑い、城川は拾った靴でドアを数回叩いた。
﹁開けろ。登録書を見たいだけだ﹂
森が城川のそばまで行って、提案した。
﹁上等兵殿、あのラミールという人を連れて来ましょう。通訳してもらいに﹂
﹁おお、それもいいかもしれんな﹂と城川はほっとした表情に変わった。これで周りの住民が見て
いるところで婆さんのドアを壊したり強制的に入ったりする必要はなくなった。
城川は、
﹁参った、参った﹂と言いながら靴をドアの前に置き、二人は出かけた。
﹁あいつ、いるといいな⋮⋮﹂
十五分ほどで、二人はラミールの家に着いた。幸いなことに、彼は家の中で暑い午後の時間を寝て
過ごしていた。二人に起こされ、用を説明されると、ラミールの顔に一瞬だけ迷惑そうな怒りがはっ
きりと見えたが、すぐに建前の無表情な顔を取り戻し、
﹁では、行きましょう﹂と返事した。

第一部
婆さんの家に戻ると、前と同じように近所の人々が興味津々と眺めていた。今回は、森と城川より
先にラミールがドアを叩いてタガログ語で挨拶した。

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婆さんはドアを開けて一度だけ城川を睨みつけたが、その後ずっと日本人二人を無視し、ラミール
の方しか向かなかった。かなり腹を立てていたらしく、ラミールが通訳し終わるのを待たずに、婆さ

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んはずっと自分の愚痴をこぼし続けた。
﹁昨日も日本兵が来て、登録書を見せてくれと頼まれたそうです。で、婆さんが言うには、その一
人が無理やり家の中に入って、死んだ旦那の靴を片方だけ盗んだ﹂
城川が笑って言葉が出なくなったので、森が言った。
﹁そんなことあり得ないよ。片方だけの靴なんて!﹂
﹁まあ、自分もそう思いますが、婆さんはとにかくそう言っています﹂
城川は、少し離れた場所から中年の男が見ていることに気づき、近くまで来るよう手招きした。そ
れから、ラミールに頼んだ。
﹁こいつに日本人の靴泥棒の話について何か知っているかどうか聞いてくれ﹂
ラミールの通訳が終わり男が答えると、婆さんは気が狂ったように突然にその男に向かって叫び出
した。
﹁何と言った?﹂と森はラミールに聞いた。

﹃この婆は誰にだって靴を投げつけるから、一個なくなったってちっとも不思議じゃない﹄
って﹂
城川は大きく頰が緩んだ。
﹁何だ。そういうことだったのか。じゃ、こう言ってくれ。登録書を見せてくれれば、兵舎に帰っ
てから俺がその靴を必ず探し出してみるって﹂
ラミールが通訳すると、婆さんはやっと落ち着いた。
﹁でも、登録書をなくしてしまったそうです﹂
﹁やっぱりそうか。最初からなかったんだろうけど﹂と城川が満足そうに小袋から未記入の登録書
を取り出した。
﹁名前を聞いてくれ。ここに書くから⋮⋮﹂
漸く、問題が解決したので森も安 した。
その後、夕方まで巡回を続けて無事に兵舎に戻ったが、婆さんの旦那の靴はもちろん出てこなかっ
た。

ISBN: 978-4-329-00470-3

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森は列車の旅を楽しみにしていたのだったが、一晩も乗ると、やっと降りられることが嬉しかった。
東京へ近づいて来るにつれて、車内はどんどんいっぱいになり、満員状態で数時間立たなければなら
なかった。その間、窓を閉めても息苦しく、開けても機関車の煙が車内に入り込んだ。下車する頃に
は、森の顔と服が煤で汚れているほどだった。

第一部
上野駅に到着し、ホームに降りると、朝の澄んだ空気を吸いながら森は背伸びをして言った。

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﹁東京だ! やっと着いたね、父さん﹂

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﹁うん、結構長かったな﹂

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