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武道学研究 44 (1): 25 36, 2011〈原著〉

『天真伝白井流兵法遣方』における白井亨の履歴について
―その史料学的信頼性の検討―

和 田 哲 也

The personal history of Toru Shirai as described


in :
A study of its reliability as a historical source
from the standpoint of historical materiology

Tetsuya WADA

Abstract

The purpose of this paper is to use historical materiology to study the reliability of the personal history
of Toru Shirai as described in , written by Shirai s disciple Okunojyo
Yoshida. To do so, we clarify the descriptive form and contents of the biography, the source of the information
used by Yoshida to write the history, and we verify the truth of the content.
The conclusions of this study can be summarized as follows:
1) The biography of Toru Shirai as described in is based on
what Shirai himself wrote in . However, information about Shirai s birth and social position
were added to the beginning , information about his experiences that occurred after Shirai wrote
were added to the end, and anecdotes about his kenjutsu practice after age 8, including his
matches against swordsmen from different schools, were inserted in the middle of
.
2) The added information is described in concrete terms, and some of it must have been communicated
directly from Shirai to Yoshida. Judging from the related sources, Yoshida seems to have kept records of what
Shirai said. Therefore, details of Shirai s birth, social position, and anecdotes about his kenjutsu practice and so
on must have been described based on Yoshida s records. In that sense, the added information can be said to
have a fairly high reliability as a historical source.
3) As a result of the detailed verification of the truth of Shirai s birth, social position, anecdotes about his
encounter with the ascetic Tokuhon, and other matters, it has been proved that most of the information is true.
We can, therefore, conclude that Shirai s personal history in , written

信州大学教育学部 Faculty of Education, Shinshu University


〒 380-8544 長野県長野市西長野 6-ロ
TEL : 026-238-4153
E-mail : kasuiwa@shinshu-u.ac.jp

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武道学研究 44(1): 25 36, 2011

based on that Shirai himself wrote and what Shirai said, has a fairly high reliability as a
historical source from the standpoint of historical materiology.

Key words : historical materiology, Toru Shirai, personal history,


Tenshinden Shirairyu Heiho Tsukaikata

キーワード:史料学,白井亨,履歴,天真伝白井流兵法遣方

はじめに 業績であると言える。そして,前述の『兵法遣方』
 剣術家白井亨の履歴を知る上で第一の史料と のように,従来の説を覆すことにつながる可能性
なっているのは,亨自筆の『兵法未知志留辺』1)
(以 のある重要な史料については,この史料学的な視
下『未知志留辺』と略記)であり,従来の剣道史 点から,史料としての信頼性が充分検討される必
ではこれをもとに亨の履歴が記述されてきた。そ 要があると考えられる。しかし,これまでのとこ
の中には彼が剣術を始めた 8 歳の時からの修行の ろ『兵法遣方』についてそのような検討は全く行
過程が記されているが,そこに彼の出自や身分な われていない 6)。
どについての記述はなく,この書を著した 51 歳  そこで,本研究は史料学的な見地から,天真白
以降の事柄についても記述はない。一方,近年は 井流および白井亨に関連する史料を用いて,『兵
2)
『剣の精神誌』 などの著作において,亨の出自や 法遣方』の記述形式と内容の特徴,および著者吉
身分等を含めた履歴が記述されるようになってき 田奥丞が執筆に用いた情報の出所を明らかにする
ている。そして,その根拠となっている新たな史 とともに,記述されている事柄の真偽について検
料が『天真伝白井流兵法遣方』3)
(以下『兵法遣方』 証を行い,その史料としての信頼性を検討するこ
と略記)である。そこに記されている亨の履歴は とを目的とするものである。
従来のものとはいくつかの点で大きく異なってお
り,これまでの剣道史における彼の履歴に修正を Ⅰ.剣道史における白井亨の履歴と『兵法遣方』
迫るような内容も含まれている。その点において, 1.剣道史における白井亨の履歴
この史料は研究上大きな意味を持つものであると  白井亨の履歴を知る上で最も信頼できると考え
言える。 られる史料は,彼が天保 4 年(1833)に著した『未
 史料は歴史学研究において歴史を考察する根拠 知志留辺』上巻に記されている履歴である。そこ
となるものであるが,史料として用いるためには には彼が 8 歳で機迅流を学び始めてから,自身の
事前に充分な吟味(史料批判)が必要である。一方, 剣術を確立するまでの修行の過程が詳細に記され
歴史学に近接する学問領域である史料学は,史料 ている。しかし,この履歴の主題はあくまで剣術
そのものを対象とし,史料批判を通してその史料 修行にあり,それとは直接関わりのない彼の出自
の性格や価値を解明しようとするものである 4)。 や身分などについての記述はない。また当然なが
渡辺は『日本古文書学講座第 8 巻近世編Ⅲ』にお ら本書を著した 51 歳以降についても記述がない。
いて,「未開拓ともいえる武道史研究の史料」 を (山田次朗吉)7)
この白井亨の履歴は『日本剣道史』
種類によって分類し,具体的な例をあげてその意 『大日本剣道史』(堀正平)8),
『剣道五百年史』(富
5)
味や史料的価値について詳しく論じているが , 永堅吾)9),『武芸流派大事典』(綿谷雪・山田忠
これも武道史研究の史料を対象とする史料学の存 史)10)など,多くの剣道史関係の著作に記述され
在とその重要性を明らかにした,優れた史料学的 てきたが,このうち『剣道五百年史』には「かれ

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和田 :『天真伝白井流兵法遣方』における白井亨の履歴について

がことについては,彼自身に著した兵法未知志留 和印可(皆伝),文政 2 年(1819)には山口流剣


11)
辺によって大体がよくうかがわれる」 とあるよ 術印可(皆伝)を授けられている 16)。その後天
うに,その記述の主たる根拠となっているのはや 保 2 年(1831)に,仕えていた前田利保の命で白
はり『未知志留辺』であり,その他の著作におけ 井亨へ入門した彼は天保 12 年(1841)には天真
る履歴も概ねこれに沿ったものとなっている。 白井流の皆伝を許され,同流の師範となって藩士
 一方,前掲の剣道史関係の著作には『未知志留 の指導にあたった 17)。このように,吉田は武術
辺』からは確認することができない事柄について の修行経験が豊富な人物ではあったが,亨へ入門
の記述もある。その一つは白井亨を備前岡山藩士 した時はすでに 42 歳という年齢であった。
であるとしていることである。これは彼の出自や  現在富山県立図書館にはこの吉田奥丞の記した
身分に関わることであり,その履歴を考える上で 天真白井流関係の書物 11 点が所蔵されており,
極めて重要な点であるが,それらの著作には亨が 『兵法遣方』はその一つである 18)。同書は以下の
岡山藩士であったとする記述の根拠は示されてい ような構成となっている。
ない。たしかに,
『未知志留辺』によれば亨は文 ①「天真兵法」(末尾に天保癸卯春とある)
化 2 年(1805)から 7 年間にわたって岡山に滞在 ②「天真白井流兵法遣ヒ方委敷留」
したことから,岡山藩とは関わりが深い。しかし, ③「天真兵法目録」
(末尾に天保七丙申歳春三
彼は文化 8 年(1811)に母の病の報を受けて岡山 月較定,錬丹舎白井氏とある)
から江戸に向かったことを「郷里ニ帰」12)ると記 ④「十五法遣ヒ方ノ大概」
していることから,
明らかに江戸の生まれである。 ⑤(天真兵法の道統:伊藤一刀齊景久から寺田
もし,彼が生まれ付いての岡山藩士であったとす 五右衛門宗有)
れば定府の藩士の子ということになるが,武者修 ⑥「天真兵法元祖白井亨義謙」
行で長期にわたって江戸を留守にしていたその行 ⑦「御弟子ノ荒増ヲ留ル」(大名・旗本の弟子
動から考えて,彼を岡山藩士とすることにはかな について)
り無理があると言わなくてはならない 13)。 ⑧(その他の弟子について)
 このように,これまでの剣道史における白井亨 ⑨(著者吉田奥丞有恒の履歴:弘化元年 10 月
の履歴はほとんどが『未知志留辺』に沿って記述 まで。末尾に弘化 3 年 3 月の日付,署名,花
されたものであり,彼の出自など明らかになっ 押,印)
ていない点が多い。またその中には根拠が曖昧 ⑩(著者吉田奥丞有恒の履歴追記:弘化 3 年 5
で,事実とは考えにくい事柄も含まれているので 月より嘉永 6 年正月まで)
ある。一方,近年は『剣の精神誌』14)
(甲野善紀, これらのうち,前半の①∼④は天真白井流の技に
平成 3 年),『全国諸藩剣豪人名事典』15)
(間島勲, ついて記されたもので,型の名称やその遣方の詳
平成 8 年)など,亨の出自や身分等を含んだ履歴 細,型を整理した経緯などが記されている。また,
が記述されている著作が見られる。そして,これ ⑤以下には伊藤一刀齊から続く道統(代々の継承
ら著作の記述の根拠となっているのが,亨の弟子 者の履歴),詳細な白井亨の履歴,門弟の名前や
吉田奥丞が著した『兵法遣方』の中にある亨の履 著者吉田奥丞の履歴などが記されている。⑨の末
歴である。 尾に弘化 3 年 3 月の日付や署名があることから,
その大半は亨の死から 3 年後の弘化 3 年(1846)
2.著者吉田奥丞と『兵法遣方』 に書きあげられたものとみられる 19)。そして,
 『兵法遣方』の著者吉田奥丞は富山藩士で寛政 これらのうち⑥が亨の履歴の記述された部分であ
2 年(1790)の生まれである。彼は享和元年(1801) る。
12 歳で四身多久間見日流和と山口流剣術を学び
始め,文化 13 年(1816)には四身多久間見日流

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武道学研究 44(1): 25 36, 2011

Ⅱ.
『兵法遣方』における白井亨の履歴について (四十七歳谷中善性寺ニ葬)
。余雑技(八寸ノ伸
1.記述形式と内容の特徴 曲尺)ヲ荷ツテ諸州ニ行脚シ,山水ヲ楽テ徒ラ
 ここでは『兵法遣方』における白井亨の履歴と, ニ光陰ヲ費ス事数年。是レ天真ヲ養フ事ヲ知ラ
亨自筆の『未知志留辺』におけるそれとを比較し サルニ因ル(括弧内は文中の付記,句読点:筆
ながら,その記述形式と内容の特徴を明らかにし 者,以下同じ)。20)
たい。 と記され,そのすぐ後には,
 まず,両者を比較してみるとそこに矛盾すると 又文化二乙丑年九月東都ヲ発シ,京摂及ヒ中国
ころはないが,内容にはいくつかの点で違いがあ ニ遊ヒ備藩ニ至リヌ。幕下ノ諸士余カ雑技ヲ奇
る。最も明確な違いは,
『兵法遣方』の履歴には ナリトシテ脚ヲ止メントス。21)
亨の 8 歳以前に関わる事柄(亨の出自や身分等) というように文化 2 年(1805)9 月に西へ向かっ
や,
『未知志留辺』執筆以降および亨没後の事柄 て旅立ち,やがて備前に足を止めたことが記され
など,
『未知志留辺』には記されていなかったこ ているに過ぎない。一方『兵法遣方』では,中西
とが書き加えられていることである。これらは従 の死後亨が武者修行に出たことを記した部分に
来の剣道史には記されていなかったものであり, 「上総,房州,下総,常陸,上州,信州,甲州」22)
その記述が正しいとすればたいへん重要な部分と というように,遍歴した地域名が具体的に示され
いうことになる。 ている。さらに,享和元年に武者修行に出たこと
 次に,両者に共通する白井亨の 8 歳から『未知 と文化 2 年に西日本に向かったことの間には,亨
志留辺』執筆までの間の事柄についていえば,例 が相撲を稽古したこと,その指料とした刀を手に
えば「機迅流への入門と離門」,「中西忠兵衛へ入 入れた経緯,神道無念流や馬庭念流との他流試合
門」
,「中西の死とその後の遍歴」,「西日本へ武者 の様子,信州方面の亨の弟子の名前など,この期
修行に出立」といった主要な彼の行動や出来事な 間にあったいろいろな事柄が挿入される形で書き
どは,その記述に若干の精粗の違いはあるものの, 記されているのである。
どちらの履歴にも同じように記されている。つま  このようなところから,『兵法遣方』における
り,その履歴の骨子は両者ともほとんど同じだと 履歴の記述は,すでに書きあげられていた『未知
いうことである。これは『兵法遣方』の履歴が, 志留辺』の内容を骨子としながら,冒頭に白井亨
既に書きあげられていた『未知志留辺』を骨子と の出自や身分に関する事柄を,8 歳以降の修行の
して記述されたからであると考えられる。しかし 経緯には他流試合の様子などの様々な事柄を,そ
ながら,
『未知志留辺』ではかなりの分量で記さ して末尾に『未知志留辺』執筆以降の事柄を書き
れていた具体的な稽古の様子や,修行における心 加えた形になっていると見ることができる。
的葛藤などの記述が『兵法遣方』にはほとんど見
られない。そのような内容は亨本人だからこそ書 2.『兵法遣方』に書き加えられた記述の特徴
き得たものであり,吉田による履歴からそれが削  上述のように,『兵法遣方』には『未知志留辺』
られているのも当然のことと言える。 にはなかった様々な事柄が書き加えられている
 また,もう一つの大きな違いは,
『兵法遣方』 が,例えば白井亨が相撲の稽古をしたことについ
の履歴には,白井亨が武者修行で廻った具体的な ては次のように記されている。
地名や他流試合の様子,武者修行中に得た門弟の 又稽古場ニテ角力ヲ取ルニ折々負シ事モアル故
氏名など,
『未知志留辺』には記されていなかっ ニ,其頃角力親父玉垣ノ弟子ニナリ宅ニテジ取
たことが多く記述されているという点である。例 ノ時度々稽古ス。近頃ノ幕角力勢見山出カケノ
えば『未知志留辺』では享和元年(1801)の中西 時ニハ先生トゴカクニ取リシ由。23)
子啓の死後,彼が武者修行に出たことについて, このように記述は具体的で,
「玉垣」
,「勢見山」
時ニ享和元辛酉年二月十七日師(子啓)死ス という実在の年寄や力士の名が見える 24)。また,

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和田 :『天真伝白井流兵法遣方』における白井亨の履歴について

中西の死後各地を遍歴した時期に行った他流試合 たので,その「二百五十両」を持ち帰って住宅や
については次のようにある。 道場を建てたという。これは家の内証とでもいう
又前顕ノ国々遍歴ノ中チニ,上州馬庭ニテ念流 べき,うちわの暮らし向きに関する事柄であり,
トテ名高キ流儀アリ。師範ハ樋口十郎兵衛ト申 これなども本人と親しい間柄でなくては聞くこと
ス。是レ行カレテ比較申込処承知ニテ,併シ此 ができない内容であると言える。
方ハ素面故先生ニモ素面ト申故,素面ニテ樋口  以上のように,『兵法遣方』に書き加えられた
ノ門人皆々ニ打勝シト也。25) 事柄の記述は具体的で,それらは伝聞の形になっ
これは上州の馬庭念流門弟との他流試合の様子 ているものが多い。また,その中には白井亨本人
で,双方が素面で試合を行ったことが記されてい から直接聞かなくては知りえないような内容のも
る。ここに挙げたのはいずれも亨の修行中の逸話 のも含まれているのである。
ともいえる事柄であるが,そこには具体的な地名
や人名が記されており,記述も詳しいものとなっ 3.記述のための情報の出所
ている。そして,これらの例が示すように,この  吉田奥丞は天保 2 年の入門であり,白井亨の履
ような事柄に関する記述の文末は,
「∼由」ある 歴におけるそれ以前の事柄は彼が直接見聞きした
いは「∼ト也」のような伝聞の形式となっている ものではない。したがって,この履歴執筆のため
ものが多い。つまり,これらの逸話は誰かから聞 の情報のほとんどは,彼が他から得たものという
いた話として書かれているということである。 ことになる。そして,中でも最も確かな情報源と
 また,剣術の修行とは直接関わりのない事柄で なったのが亨自筆の『未知志留辺』であったのは
あるが,岡山滞在中の逸話として,岡山藩への仕 言うまでもないであろう。一方,
『未知志留辺』
官を巡る亨とその母親のやり取りについて次のよ には記されていなかった亨の逸話などの事柄は前
うにある。 述のように記述が具体的で,亨本人から聞かなく
偖又備前ニテ先生三百石ニ御召拘ヘノ御沙汰ア ては知りえないような内容も含まれていた。それ
リ。先生江戸表ノ御袋ヘ申ツカワサレル所,御 らの情報が他からの又聞きなどではなく亨から直
袋定府ナラ有リガタシ御国ハ御免トテ承知仕ラ 接聞いたものであるとすれば,記述されている内
ス。拠ナク御辞退申上ル。26) 容は亨の語った言葉ということになる。その点を
このように,岡山藩で召し抱えの話があった時, 明らかにすることは本履歴の史料としての信頼性
「定府」ではない国元(岡山)での仕官では承知 を確認する上で非常に重要である 28)。
できないという江戸の母親の意見で,亨は仕方な  これを考える上で,極めて注目すべき記述が『未
く仕官を辞退したという。これは伝聞の形には 知志留辺』の序文(白井の自序)に見られる。そ
なっていないものの,きわめて家庭内的な事柄を れは次のようなものである。
記したものであり,その当事者から聞かなくては 壬辰之秋余嘗為津田明馨白井種敬吉田有恒講明
なかなか知りえないものである。また,亨が文化 道論一過。三子随而疏記之。有恒又録余所恒言
12 年(1815)に岡山から江戸に帰って住宅や道 兵法道統之旨。今春三子示之余合辞請曰弟子輩
場を建てたことについて,次のような記述も見ら 所記雖出乎先生口授而庸劣不文辞意湮晦猶之扣
れる。 槃捫燭不能仰太陽之顕赫也。敢願先生親加筆削
前七ヶ年ノ間タノ謝儀等世話人アツテ預リ利廻 以示弟子使其発昏曚焉。懇求再四誼不可峻拒。
シニスル。是ヲ取立テ金子二百五十両,是ヲ持 於是粗作添刪授之。29)
参シテ江戸表へ帰リ下谷仲御徒町ニ住宅拵ヘ, ここにあるように「壬辰之秋」(『未知志留辺』執
又道場モ拵テ一刀流師範也。27) 筆前年の天保 3 年秋)に亨から「明道論」の講義
ここにあるように,亨は以前岡山に滞在した時に を受けた津田明馨,白井種敬,吉田奥丞ら三人の
得た金を,世話人がうまく運用して増やしてくれ 弟子は,翌春彼らがその講義内容を「疏記」した

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武道学研究 44(1): 25 36, 2011

ものと,三人のうちの一人である吉田が記録して ねるよう吉田に命じている 35)。また,利保はそ


いた「余所恒言兵法道統之旨」(日頃亨が話して の命によって吉田を亨のもとへ入門させた後も,
いた流儀の道統に関すること)を亨に示し,その 「時々有恒伝来ノ法ヲ諮問アラセラル」36)とある
添削を求めた。そして,それが亨の履歴を記した ように,流儀に関することを時々吉田に諮問して
上巻と,「明道論」の注釈書である下巻からなる『未 おり,その関心を保ち続けていた。さらに,天
知志留辺』の執筆につながったというのである。 保 13 年(1842)には自分自身が天真白井流に入
この記述からは吉田が流儀の道統に関する師の言 門して実際にその技を学び,翌年には亨と流名に
葉を日頃から記録していたということがわかる。 ついての穿鑿を行なったともいう 37)。このよう
 また,吉田奥丞の著作の一つに『天真伝一刀流 な武術に強い関心を持つ主の諮問に答えるために
30)
兵法』 があるが,そこには『兵法遣方』ほど詳 も,吉田はその修行の経緯や稽古の内容,あるい
細ではないものの,伊藤一刀齊から白井亨へとつ は流儀に関わる師の言動などをいつも正確に記録
ながる道統が記されている。その記述の大半は亨 しておくことに努めていたものと考えられる。
の履歴に充てられており,そこに吉田の強い関心  以上のように,吉田奥丞は日頃から白井亨の言
があったことを示している。そして注目すべきこ 葉を記録していたことから,『兵法遣方』に書き
とは,この道統末尾に記された「天保三壬辰八月」 加えられていた亨の出自や身分,あるいは修行中
が上記の亨の講義が行われていた時期にあたると の逸話なども,吉田が亨から直接聞いたものであ
いうことである。もちろん,これが『未知志留辺』 る可能性が極めて高い。また,吉田の記録は当事
執筆のきっかけとなった吉田の記録そのものであ 者である白井の言葉を,時間を置くことなく記録
るとは断定できないが,書かれた時期から見て, したものであり,それをもとに記された『兵法遣
吉田の記録はこの道統のように亨の履歴を中心と 方』の記述は,又聞きやその当時を思い出して記
して記述されたものであった可能性が高い。また, 述した場合に比べ,史料としての信頼性は高いも
この道統末尾には「右先生ノ伝書ニアラス。愚尋 のであるといえる。
問ノ荒増ヲ集テ書記置也」31)と書き添えられてい
ることから,彼は亨の言葉をただ聞いているだけ Ⅲ.記述内容の真偽の検証
ではなく,彼の方から積極的に尋ねていたことが  『兵法遣方』における白井亨の履歴の史料とし
窺われる。このように,吉田は亨の履歴に強い関 ての信頼性を確認するためには,『兵法遣方』に
心を持って日頃から師の言葉を記録しており,そ 書き加えられていた様々な事柄の真偽を検証する
れが『兵法遣方』の記述に生かされていると考え 必要がある。しかし,史料的な制約もあり,記述
られるのである 32)。 されているすべての事柄の真偽を明らかにするこ
 また,吉田には道統や白井亨の履歴に関するこ とは不可能である,そこで,ここでは亨の履歴を
とだけではなく,修行した型の遣い方や,亨が弟 考える上で重要と考えられる彼の出自と身分,修
子に教えるために用いた譬咄などを細かく書き留 行中の逸話の一つである徳本行者との出会い,お
めた書物もあり 33),彼の記録は流儀全般にわたっ よびこれまで知られていない亨の 51 歳以降の事
ていたと言うことができる。それは,第一に自身 柄について検討を加えることにする。
の修行のためであったと思われるが,亨への入門 【白井亨の出自と身分】
と修行が,仕えていた前田利保 34)の命によるも  『兵法遣方』によれば白井の出自に関して次の
のであったということも大きい。前田利保は本草 ようにある。
学や歌学などに通じた博学の大名としてよく知ら 白井ノ先祖ヲ遠ク尋ルニ,信州松代ノ下モ福島
れているが,武術への関心にもかなり強いものが ノマタ下モニ中野ト申ス所ノ郷士也。中頃二男
あり,彼は吉田から鈴木伴次郎(起倒流)と亨が 白井彦兵衛ト申ス人江戸表へ出テ,御旗本御側
優れた武術家であることを聞くと,すぐ両人を訪 御用取次稲葉某ニ(今安房館山ニテ一万石,稲

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和田 :『天真伝白井流兵法遣方』における白井亨の履歴について

葉兵部少輔殿也。御大名也)奉公シテ公用人ヲ ことができないが,常楽寺の記録では平太夫(彦
勤メ,勝手向相応ニシテ暮ス中頃,故郷ノ中野 兵衛)は後に「房州館山ノ陣屋代官郡代被致」45)
ニ五百羅漢ヲ建立スル也。女子二人アリ。妹ノ とあることから,士分として稲葉家に仕え,官
方江戸町人分限家ニ大野某アリ,是ヘ嫁ス。其 吏として役職を勤めていたことは事実と見られ
跡ニ姉ハ病死也。〈中略〉子二人アリ。惣領ハ る。したがって彦兵衛の養子となった亨は士分
女子,次ハ男子,則白井先生也。大治郎ト云フ。 ということになる。しかし,
『兵法遣方』によれ
祖父彦兵衛ノ養子ト成ル。其後大野某病死シテ ば「先生幼年ノ中チ彦兵衛病死也。併シ跡目願ハ
跡絶ヘル(引用文中の括弧内は行間の書き込み: ズ」46)とあるように,亨が彦兵衛の跡を継ぐこと
38)
筆者)。 はなかったという。この点に関しては常楽寺の記
ここにあるように亨の先祖は信州中野の郷士で, 録にも,彦兵衛の死後「平次郎ト申養子跡役勤候
その家の二男白井彦兵衛が江戸に出て旗本稲葉 処」47)とあり,稲葉家の家臣としての白井家は亨
氏 39)に仕え,彦兵衛の娘が大野某へ嫁いで生ま とは別の養子が継いでいることから,『兵法遣方』
れたのが大治郎(亨)であるという。文中に白井 の記述のとおり亨は彦兵衛の跡を継がなかったも
彦兵衛は故郷の中野に「五百羅漢ヲ建立スル」と のと考えられる。また,
『兵法遣方』によれば亨
あるが,この五百羅漢像は中野市の常楽寺に現存 が彦兵衛の跡を継がなかったのは,彦兵衛が生
する。その常楽寺の記録によれば, 前「旗本ノ家来ハヒマナクシテ稽古事モ成リ兼ル
五百羅漢之施主ハ中野中町白井平太夫と申人, 也。忰ハ浪人サシテ武芸ヲ励マスベシト御袋ニ申
江戸外桜田稲葉越中殿家来ニ而,金七両弐分ニ シ付ル」48)とあるように,亨を浪人させて武芸に
三人扶持ノ人也。
〈中略〉寛政六寅年死去被致候。 専念させるよう母親に申しつけていたからである
扨稲葉ノ屋敷跡平次郎ト申養子跡役勤候処,是 という。その真偽は明らかでないが,亨が剣術の
も死去。又娘壱人有之。神田材木屋大野屋吉六 指導に訪れた真田藩上屋敷の記録『御側御納戸日
女房ニ候。是も不首尾ニ而跡居住不相知。吉六 記』49)には,「浪人白井亨」 とその身分がはっき
40)
倅大治郎申者御座候。兵法致指南。 り記されていることから,彦兵衛の死後亨は白井
とあり,五百羅漢の施主は『兵法遣方』とは違っ 家を離れて浪人となっていたものと見てよい。剣
て「白井平太夫」となっている。しかし稲葉正明 術修行のために各地を遍歴し,長く江戸を離れて
41)
「大野屋吉六」 に嫁いだその娘の子(平
に仕え, 修行に打ち込むことができたのは,彼が仕えるべ
太夫の孫)大治郎が「兵法致指南」とあることから, き主を持たない浪人という自由な身分にあったか
「平太夫」は間違いなく 「彦兵衛」 と同一人物で らこそ可能なことであったと言えるであろう。
ある 42)。また,その家族関係も『兵法遣方』に  以上のように,『兵法遣方』における白井亨の
記されたものとほとんど同じである。このような 出自と身分に関する記述はほぼ間違いないことが
ところから,『兵法遣方』に記された亨の出自に 確認できる。したがって,彼を岡山藩士であると
43)
関する記述はほぼ間違いないものと見てよい 。 する従来の説は修正されなくてはならない 50)。
 次に白井亨の身分であるが,先の引用文中に 【徳本行者との出会い】
あったように,彼が「神田材木屋大野屋吉六」の  白井亨と徳本行者の出会いについて『未知志留
子であるとすれば,その本来の身分は町人という 辺』には何も記されていない。しかし,この逸話
ことになる。しかし,『兵法遣方』によれば,彼 は従来の剣道史のほとんどの著作に記されてお
は祖父白井彦兵衛の養子になったと記されてお り,それは文化 12 年(1815)に亨が寺田宗有か
り,このことは彼が町人(大野)に嫁いだ彦兵衛 ら免許を与えられた後のことであるということに
の娘の子でありながら,祖父の白井姓を名乗って なっている 51)。一方『兵法遣方』にもその出会
いたことと符合する。祖父彦兵衛が稲葉家に仕え いについて記されているが,それは亨が文化 8 年
て「公用人ヲ勤メ」44)たかどうかまでは確認する (1811)に寺田に師事してから,免許を得るまで

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武道学研究 44(1): 25 36, 2011

の 5 年間にあったこととして記述されており,従  『兵法遣方』によれば,白井亨は天保 12 年(1841)


来の説とは異なっている。 頃「嫡子大治郎」のために「公儀御徒方ノカブ」
(御
 この出会いについては,徳本上人の伝記であ 家人株)を買い,大野姓を名乗らせたという 57)。
る『徳本行者伝』52)に記述がある。それによれば, その真偽を直接確認することはできないが,『御
諸国を廻って帰府した時,亨はその未熟さを寺田 側御納戸日記』58)によれば,翌天保 13 年(1842)
宗有に叱られ,高僧に教えを受けることを勧めら に亨が大治郎を伴って真田家上屋敷を訪れた時の
れた。そして,徳本行者を訪ねた亨はその念仏す 記録に「白井亨・大野大治郎」と連記されており,
53)
る姿を見て「剣法の妙処を悟」 ったという。ま この時大治郎は嫡子でありながら大野姓を名乗っ
た,それは徳本が「摂州勝尾」
(現大阪府箕面市 ていたことがわかる。また,
『兵法遣方』には天
勝尾寺)にいた頃であるとしている。この伝記に 保 14 年(1843)に亨が「大野大治郎拝領地西和
は出会いの時期が明記されていないが,徳本は文 泉橋通リノ御徒町山下寄」59)に家を建て,同時に
化 11 年(1814)5 月に摂津勝尾寺から江戸に向 道場もそこに建てたことが記されている。当時
かい,以後文政元年(1818)10 月に小石川伝通 「西和泉橋通リ」は存在せず,和泉橋通りを挟む
院の一行院で没するまで摂津には戻っていないこ 地域の町名を「和泉橋通リ御徒町」と称したこと
とから 54),それは文化 11 年以前のことというこ から 60),拝領地があったという「西和泉橋通リ
とになる。この『徳本行者伝』は徳本の直弟子が ノ御徒町」とは,通りの西側に広がる「和泉橋通
師の行状を筆記した記録をもとにまとめられた伝 リ御徒町」の意であると解される。また,
「山下
記であり,亨との逸話は寺田宗有と同藩だった「円 寄」とは寛永寺(上野の山)に近いところの意で
勝寺本順和尚」の言葉として記述されていること ある。そして,嘉永 4 年(1851)の尾張屋版江戸
55)
から ,かなり信頼のおけるものと考えてよい。 切絵図の『東都下谷絵図』61)によれば,神田川に
また,諸国修行から江戸に帰った亨が寺田からそ 架かる和泉橋から北に進む通り(和泉橋通り)を
の未熟を叱られたとすれば,それは免許を受けた ずっと寛永寺近くまで進んだ左側(西側)の屋敷
後のこととは考えにくく,むしろ文化 8 年(1825) 地に「大野大二郎」の名を見ることができる。
「御
に岡山から江戸に帰って寺田の教えを受けるよう 徒町」と呼ばれるこの地域は,その名の通り御徒
になった時のことと考えるのが自然である。さら 組に属するような幕府の下級武士の屋敷が建ち並
に,
亨は寺田の教えを受けて灌水を始めてからも, んでいた地域であり,この「大野大二郎」の屋敷
「備藩京摂ニ到ルニ旅邸客舎トイヘトモ修シ怠ラ の位置は『兵法遣方』における「大野大治郎拝領
サル事五年,七日飲食ヲ断テ水浴スル事再タビ, 地」の記述と完全に一致していることから,江戸
一ハ備陽ノ瑜伽山ニ於テシ,一ハ茅舎ノ樓上ニ於 切絵図にある「大野大二郎」は白井亨の子大治郎
56)
テス」 とあるように,勝尾寺のある摂津から備 であると考えられる 62)。また,ここに拝領地を
前にまで赴いたことを自ら書き記している。この 得ていたとすれば,亨が大治郎のために御家人株
ようなところから,二人の出会いは従来の説とは を買ったという話も事実である可能性が高い 63)。
違って亨が灌水に励んでいた頃のことと見るべき  また,『兵法遣方』によると白井亨は天保 14 年
であり,その点においてこの逸話に関する『兵法 11 月 14 日に 61 歳で没し,「法名顕名院栄誉徳昌
遣方』の記述は正しいものと考えられる。 秋水居士。江戸浅草新堀端松平西福寺,寺中源宗
【51 歳以降の事柄】 院ニ葬ル。浄土宗」64)とあるように,浅草新堀端
 白井亨が『未知志留辺』を著した 51 歳以降の にある松平西福寺の寺中(塔頭)である源崇院に
事柄は,多くは吉田が実際に見聞きしたことと考 葬られたという。現在亨の墓があるのは蔵前の法
えられることから,その記述の信頼性は高いもの 林寺であるが,この寺に墓があるのは次のような
と見てよい。そこで,ここでは二,三の点につい 事情による。亨はその死後『兵法遣方』にあるよ
て言及するにとどめる。 うに間違いなく源崇院に葬られたが,源崇院は近

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和田 :『天真伝白井流兵法遣方』における白井亨の履歴について

世末に同じく松平西福寺の塔頭の一つであった法 いてその真偽を検証した結果,それらは概ね事実
林寺に合併された。また,関東大震災後墓地の大 を伝えるものであることが確認できた。したがっ
幅な整理・移転が行われ,旧源崇院の墓地にあっ て,白井自筆の『未知志留辺』と白井が語った言
た白井の墓も現在の法林寺墓地に移されたもので 葉をもとに記述された『兵法遣方』における白井
ある 65)。なお,法林寺の『改葬墳墓調書』66)に の履歴は,史料学的に見て信頼性の高いものであ
よれば,
『兵法遣方』にある白井の命日や戒名等 ると判断できる。
は正確で,彼の祖父や大野家の関係者も同寺に葬  本研究によって,『兵法遣方』における白井亨
られていることが確認できる。 の履歴は史料としての信頼性が高いものであるこ
 以上,白井亨の出自や身分,徳本行者との出会 とが確認できたが,今後はそこに書き加えられて
い,亨の 51 歳以降の事柄について若干の検討を いた様々な事柄について,個々に検証・確認作業
行い,その記述が概ね事実であることが確認でき を進めていく必要がある。それによって,これま
た。もちろん,これによって『兵法遣方』におけ で知られていなかった白井の履歴がさらに明らか
る履歴の記述のすべてが事実であるとは言い切れ になっていくものと考えられる。この点ついては
ないが,少なくともこの履歴は白井亨自筆の『未 今後の課題としたい。
知志留辺』と,彼自身が語った言葉をもとに書か
れたものであり,史料としての信頼性が高いもの 註および引用・参考文献
であると判断できる。 1)白井亨『兵法未知志留辺』錬丹舎,天保 4 年(1833)
(富山県立図書館蔵)
おわりに 天保 6 年(1835)に白井亨より吉田奥丞有恒へ与え
 吉田奥丞の『兵法遣方』における白井亨の履歴 られたもの
について史料学的な見地から考察を進めてきた 2)甲野善紀『剣の精神誌』新曜社,1991 年
が,その結果次のような点が明らかになった。 3)吉田奥丞有恒『天真伝白井流兵法遣方』,弘化 3 年
1)『兵法遣方』における白井亨の履歴の記述は, (1846)一部嘉永 6 年(1853)(富山県立図書館蔵)
すでに書きあげられていた『未知志留辺』の内容 4)東野治之『日本古代史料学』岩波書店,2005 年,p.4
を骨子としながら,冒頭に白井の出自や身分に関 東野によれば,史料学は「各種の史料を対象とし,その
する事柄を,8 歳以降の修行の経緯には他流試合 性格や価値を解明しようとする学問分野であり,多様な
の様子などの様々な事柄を,そして末尾に『未知 史料に即した史料批判がその方法となる」ものである。
志留辺』執筆以降の事柄を書き加えた形式になっ 5)
『日本古文書学講座第 8 巻近世編Ⅲ』雄山閣,1980 年,
ているところに特徴がある。 pp.180-191 渡辺一郎 「武芸・修行」
2)『兵法遣方』に書き加えられた事柄の記述は具 6)前掲『剣の精神誌』は『兵法遣方』によって亨の
体的で,内容的には直接白井亨本人から聞かなく 履歴が記述された最初の著作であるが,その史料と
ては知りえないようなものも含まれている。また, しての信頼性については全く言及されていない。ま
関連する史料から判断して,吉田は日頃から白井 た,史料の引用の仕方や解釈にも問題が多く,事前
の言葉を記録していたと考えられることから,履 に充分な史料批判が行われたかどうか疑問がある。
歴に記されていた白井の出自や身分,あるいは修 たとえば,甲野は『兵法遣方』にある「此方様」を
行中の逸話などの多くは,吉田が白井自身から直 「徳川家に直接連なる人物か,そうでなければ皇族で
接聞いたことを記録したものをもとに記述された あろう」と推測している。しかし,
『兵法遣方』全体
可能性が極めて高く,その点において史料として を検討すれば,これはその著者吉田奥丞と極めて関
の信頼性は高いといえる。 わりが深く,本書の来歴を考える上でも重要な富山
3)『兵法遣方』に書き記されていた白井亨の出自 藩主前田利保であることが容易に確認できる。史料
や身分,徳本行者との出会いに関する逸話等につ 批判を行う場合,その史料全体を様々な角度から総

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武道学研究 44(1): 25 36, 2011

合的に検討することが不可欠であるが,この誤りは 吉田は亨に入門する以前の文政 7 年(1824)に前田


それが充分行われていないことを示すものと言える。 利保の命で起倒流鈴木伴治郎に入門し,天保 6 年
しかし,この著作には独自の視点からの示唆に富む (1835)にはその皆伝を授けられており,すでにこの
指摘も見られ,本論を執筆する上で参考になった。 起倒流の師範として藩士を指導する立場にあった。
なお,
『兵法遣方』における白井亨の履歴は『剣術諸 18)現在富山県立図書館には天真白井流と起倒流関係
流心法論集上巻』
(筑波大学歩道文化研究会,1988) の書物・伝書類二十数点が所蔵されている。それら
で初めて活字化されたが,資料集である本書ではそ は戦前旧富山市立図書館に所蔵されていたが,同図
の記述内容の吟味や信頼性の検討は行われておらず, 書館が昭和 18 年に県立図書館に合併されたことによ
その解題における天真白井流の解説でも従来の説に り,郷土資料として県立図書館に引き継がれたもの
従って白井亨を岡山藩士とするに止まっている。 である。旧富山市立図書館に所蔵されるようになっ
7)山田次朗吉『日本剣道史』一橋剣友会,1925 年 た時期と経緯については不明であるが,旧所蔵者か
8)堀正平『大日本剣道史』剣道書刊行会,1934 年 らまとめて寄贈されたものである可能性が高い。刊
9)富永堅吾『剣道五百年史』百泉書房,1972 年 本を除いて,それらの書体,筆致はほとんどが同じ
10)綿谷雪・山田忠史『武芸流派大事典』東京コピイ, ものであり,吉田奥丞有恒の署名および花押,印等
1978 年 もすべて同じものであることが確認できる。
11)前掲書 9)
,p.340 19)富山県立図書館にある吉田の書物末尾の日付を見
12)前掲書 1) ると,弘化 3 年に 「写替」 あるいは 「写直ス」 など
13)亨が岡山藩士であったとすれば,藩士としての職 となっているものが多く,この年に大掛かりな筆写,
務もあったであろうし,藩の許可なく旅に出ること あるいは加筆等が試みられたことがわかる。この『兵
もできなかったはずである。しかし,
『未知志留辺』 法遣方』に記されている様々な項目も,この年に写
には藩との関わりを示す記述が全くない。たとえ剣 し直しや,加筆・修正が行われたものであると考え
術修行を主題とする履歴であったとしても,藩籍を られる。ただし,末尾の項目だけは嘉永 6 年に追加
有する藩士の履歴に藩との関わりが一切出てこない された部分である。
のは極めて不自然である。 20)前掲書 1)
14)前掲書 2) 21)前掲書 1)
15)間島勲『全国諸藩剣豪人名事典』新人物往来社, 22)前掲書 3)
1996 年 23)前掲書 3)
16)前掲書 3)にある吉田の履歴には,彼の武術流派へ 24)「相撲」編集部『大相撲人物大事典』ベースボール
の入門と修行の経緯,家督相続からその後の勤仕の マガジン社,2001 年,p.144 p.187
内容などが,年号,月日のもとに順を追って詳しく 引用文中の 「角力親父玉垣」 は年代から見て五代玉
書き記されている。また彼が亨に弟子入りするまで 垣額之助(明和 5 年∼文化 10 年)
,「勢見山」は玉垣
の経緯や,その後の修行についても詳しく記されて 部屋の力士二代勢見山兵右衛門(天明 4 年∼天保 4 年)
いる。その記述の形式は近世の諸藩における「奉公 のことと考えられる。
書」,「由緒書」などに極めて類似しているが,実際 25)前掲書 3)
に富山藩でも藩士に由緒書を提出させていたことか 26)前掲書 3)
ら,吉田は日頃から勤仕の内容を正確に記録してい 同書によれば,後に再び岡山藩から定府という条件
たものと考えられる。また,彼の履歴中の記載事項 で仕官の誘いがあったが,定府で抱えてもいずれは
には別の史料によってその日付と内容が間違いない 国元へ移らせるということだったので,亨はその申
ことを確認できるものもかなりあることから,その し出を断っている。
記述は正確で信頼できるものと考えてよい。 27)前掲書 3)
17)前掲書 3) 28)今井登志喜『歴史学研究法』東京大学協同組合出

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和田 :『天真伝白井流兵法遣方』における白井亨の履歴について

版部,1949,pp.58-59 なって,亨が江戸に戻っていると知った利保は,すぐ
今井によれば「本人直接の陳述は錯誤が最も少なく, に亨へ入門するよう吉田に命じている。なお,『未知
それが又聞き即ち間接の陳述となれば錯誤が入り易 志留辺』冒頭の序文もこの利保によるものである。
く,殊に時間的に人間的に間接の度が増して拡がる程 36)『武技略傳』(富山県立図書館蔵)
遠くなる程真実を損つて来る」ものであり,「時間に 37)前掲書 3)によれば,亨は寺田の没後流名を一刀流
於ても場所に於てもその陳述する内容に近い程可信 別伝天真伝兵法と称したが,天保 14 年に剣術指導の
性があり,遠くなるに従つてそれが減少する」という。 ために富山藩邸を訪れた折,前田利保と話し合って
29)前掲書 1) 流名を天真兵法に改めたという。なお吉田ら弟子た
30)吉田奥丞有恒『天真伝一刀流兵法』,天保 3 年(1832) ちは天真白井流兵法と称した。
(富山県立図書館蔵) 38)前掲書 3)
31)同上書 39)小泉欽司『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社,
32)前掲書 3)によれば,亨は吉田に対して師匠の寺 1994 年,p.175
田についての率直な批判なども語っていることから, 稲葉正明(越中守)。もと三千石の旗本で徳川家治の
彼が吉田を信頼できる弟子として認めていたことが 小姓となり,後には御側御用取次を勤めた。田沼意
わかる。そのような関係にあった弟子に対して,亨 次に従って立身し,天明元年(1781)には 1 万石の
が自身の出自や修行中の逸話などを親しく語ること 大名となって安房館山藩主となる。
があったことも十分考えられる。 40)『常楽寺記録』(中野市,常楽寺蔵)
33)
『天真白井流兵法譬咄留』
(天保 3 年,弘化 3 年写替), 41)彦兵衛の娘の嫁ぎ先について前掲書 3)には「江戸
『天真伝白井流兵法遣方留』(嘉永 7 年)など。また, 町人分限家」の「大野某」とあり,大野姓のような
『兵法遣方』前半部分の「天真白井流兵法遣ヒ方委敷 書き方になっているが,常楽寺の記録では大野屋と
留」や「十五法遣ヒ方ノ大概」なども天真白井流の いう屋号となっている。町人は公に苗字を名乗るこ
型の遣い方を詳しく記述したものである。同様に起 とはできなかったが,屋号を苗字のように用いたり,
倒流に関しても『起倒流柔術先生方之噺聞書』(文政 私的に苗字を名乗ることもあり,その家が実際に大
11 年),『起倒流柔術記録』(天保 7 年)など多くの著 野姓を名乗っていた可能性もある。
述がある。いずれも富山県立図書館蔵。 42)中野の白井家の当主は代々彦兵衛を踏襲した。『常
34)国史大事典編集委員会『国史大辞典第 13 巻』吉川 楽寺記録』には「中町白井彦兵衛」が,平太夫(亨
弘文館,1992 年,p.16 の祖父彦兵衛)の発願によって作られた五百羅漢を
前田利保は寛政 12 年(1800)に富山藩 8 代藩主前田 中野へ運ぶ金銭的な世話をしたとあることから,当
利謙の次男として生まれ,天保 6 年(1835)に 10 代 時中野の白井家当主も彦兵衛を名乗っていたことが
藩主となる。本草学を岩崎常正,宇田川榕庵に,歌 知られる。中野では平太夫と呼ばれた白井亨の祖父
学を海野幸典に学び,
『本蔵通串』,
『広庶物類纂』,
『和 は,江戸に出て別家の主となったことから彦兵衛を
歌の徳』など多くの著作がある。自知春館,万香亭 名乗ったものであろうか。
などと号した。吉田は文化 5 年(1808)より当時部 43)『兵法遣方』では祖父彦兵衛が出た中野の白井家の
屋住みだった利保に仕えた。 家格を「郷士」としているが,当時の公式文書には
35)前掲書 3)の吉田の履歴によれば,彼は文政 6 年 白井姓を見ることができないことから,白井家が正
(1823)に利保の命で出かけた高柳新十郎の塾で剣術 式な郷士身分であったとはやや考えにくい。しかし,
の白井亨と柔術の鈴木伴治郎が「格別ノ上手」であ 白井家は中野でも草分け的な古い家で,中野の名主
ることを聞き,それを利保に伝えた。利保はすぐに両 や郡中代を代々勤め,天領であったこの土地の支配
人を訪ねるよう吉田に命じたが,亨は備前に出かけて の末端を担う家柄であった。近世においてはこのよ
いないという話(誤情報)だったので,利保はまず鈴 うな地域の有力者が,正式な身分ではないものの,
木に入門することを吉田に命じた。その後天保 2 年に 自らを郷士と自称することもあったことから,白井

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家が郷士を自称していたことは十分に考えられる。 『上野下谷外神田辺絵図』近江屋版,嘉永 2 年(1849)


44)前掲書 3) 61)斉藤直成編『江戸切絵図集成第五巻』中央公論社,
45)前掲書 40) 1981 年,p.77
46)前掲書 3) 『東都下谷絵図』尾張屋版,嘉永 4 年(1851)
47)前掲書 40) 62)前掲書 60)所収の近江屋版『上野下谷辺絵図』
(嘉
48)前掲書 3) 永 6 年)では,嘉永 4 年の尾張屋版『東都下谷絵図』
49)『御側御納戸日記 中』天保 11 年 5 月∼ 8 月(真田 で「大野大二郎」と記されていたのとほぼ同じ場所
家文書,国文学研究資料館蔵) に「大野享一郎」の名がある。
『兵法至途宇乃千利』
50)岡山藩士説がどこからきたものかわからないが, (嘉永 7 年吉田奥丞写)によれば,大野姓となった大
前掲書 2)で甲野が「これは白井が後に岡山藩と親密 治郎に代わって白井家を継ぐことになった亨の子(亨
になったことからの錯覚であろう」と述べているよ の二男)は享一郎を名乗った。白井家,大野家の菩
うに,亨が岡山に長く滞在して同藩と関わりが深かっ 提寺であった法林寺の『改葬墳墓調書』(法林寺蔵)
たことが誤解を生んだものであろう。 によれば,理由は明らかでないがこの享一郎は大野
51)この逸話は従来の剣道史のほとんどの著作に記さ 姓を名乗り,兄の大治郎と同じ大野家の墓に葬られ
れているが,その記述の根拠となった史料について ている。「大野大二郎」の名があった場所に大野享一
は全く触れられていない。亨と徳本の出会いについ 郎の名があるのは,ここが大野大治郎の拝領地であっ
て記された,これまで知られている代表的な史料と たことの傍証となるものと考えられる。
しては,津田明馨が文久元年(1861)に記した『一 63)馬場憲一「江戸幕府御家人株売買の実態について̶
刀流兵法韜袍起源』(渡辺一郎『武道の名著』東京 八王子千人同心を事例として̶」日本古文書学会編
コピイ出版部,1979)の跋文があげられる。津田は 『古文書研究』36 号,1992 年,pp.33-45
寺田宗有の門弟で,宗有の死後は亨に師事したこと 近世の中期以降幕府の制限にもかかわらず,御家人株
から,亨にはたいへん近い人物であったと言えるが, を売り買いすることがかなり一般化していたという
彼も二人の出会いを寺田が亨に免許を与えて大阪に が,この大野大治郎の例もそれを示すものと言えるで
旅立った後の出来事としている。従来の剣道史はこ あろう。『兵法遣方』にある亨の弟子の記録には,弟
れを根拠として記述された可能性がある。 子の一人の「早川省三郎」が「先生嫡子大治郎ヘ公儀
52)戸松啓真編『徳本行者全集第 5 巻』山喜房佛書林, 御徒方ノカブ御求ノ時,金子五百両取替シ也」と記さ
1979 年,pp,1-68 れており,かなりの高額で株を買ったことが窺われる。
福田行誡編『徳本行者伝』,慶応 3 年(1867) 64)前掲書 3)
53)同上書,p.43 65)法林寺大谷氏によれば,今は見ることができないが,
54)同上書 関東大震災以前の源崇院の墓地にあった白井の墓の
55)同上書には「円勝寺本順和尚は。もと五右衛門と 傍らには大きな石碑(顕彰碑)が立っており,碑に
同藩の人にて。此事親しく聞きたりしとて。をりを 記された人名の中に勝麟太郎(海舟)の名もあったと,
りかたり申されき」とある。文中の五右衛門は寺田 当時を知る大野家のご子孫は語っていたという。な
五(郎)右衛門宗有。 お,現在残っている亨の墓石は最上部のみであるが,
56)前掲書 1) その大きさから見て建立時は歴代住職の墓に匹敵す
57)前掲書 3) る立派な墓であったと推定される。
58)『御側御納戸日記 上』天保 13 年 1 月∼ 4 月(真田 66)『改葬墳墓調書』(法林寺蔵)
家文書,国文学研究資料館蔵)
59)前掲書 3) 平成 23 年 1 月 22 日 受付
60)斉藤直成編『江戸切絵図集成第三巻』中央公論社, 平成 23 年 7 月 27 日 受理
1981 年,p.97

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